平和への思い。 沖縄にとって忘れてはならない日。




6月23日(水)   曇りのち雨    30℃

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今日のお弁当
□ まぐろのスパイスソテー
□ ねぎ入りだしまきたまご
□ アスパラとベーコン炒め
□ ちくわ大葉&チーズ巻き
□ プチトマト










今日は慰霊の日

沖縄にとって忘れてはならない日。





65年前の6月21日、
本島南部で砲弾の雨の中をさまよっていたひめゆり学徒の北城良子さんは、
至る所に散らばる死体を眺めながらこう願っていた。 




「 一発で、一瞬で死にたい 」 と・・・・・




太平洋戦争で唯一地上戦が行われた沖縄戦は、20万人を越す戦死者のうち、
9万4,000人が、兵隊以外の一般県民や子供という。
一般住民の間で多くの犠牲者を出した悲惨極まりのない、かつ戦略的には何ら意味のない戦闘であった。
県民のなかには集団自決や日本軍による虐殺、軍命により強制移住させられマラリアにかかり死亡、
あるいは一家全滅した例などさまざまな戦死等があり、実数は今日に至るまで判明していない。

南北約130㎞の細長い沖縄本島に打ち込まれた砲弾の数は、艦砲弾約60万発、
地上砲弾約17万発と言われ、山の形が変わるまで「鉄の暴風」が3ヶ月以上も吹き荒れたという。
自分たちの住んでいる土地に米軍が上陸し、戦場となり、20数万人の人々が悲惨な最期を遂げた。
軍人よりも沖縄県民の犠牲者がはるかに多いのが、沖縄戦の特徴だ。



6月23日は、沖縄戦で失われた20数万の人々を慰霊する日だが、
安保の名の下で、沖縄に多くの米軍基地を置き続けることが事実上決められた日でもある。


戦後、日本が独立したのは、51年のサンフランシスコ講和条約の調印によってだった。
沖縄はこの条約に基づいて米国の施政下に置かれた。旧安保条約の調印もなされた。
戦後は沖縄が米軍事戦略の「要石」といわれ続けた60年間だった。

今もなお、日本全国の米軍施設の75%は、日本国土の0・6%しかない沖縄県内に集中している。
まさに「基地の島」。 果たして本当に日本は独立しているのか・・・・。







親がいたから今の私がある。親はどう生きたのか。



母は、事有るごとに沖縄戦体験を語ってきた。
1945年、母は、両親や兄弟と別れて、祖父母と共に、那覇市首里から南部に避難することになった
当時、母は9歳。大事にしていた赤い靴を履いて防空ずきん姿で出発した。
新品の靴だけに、靴擦れがひどくて、途中脱いだことは覚えているが、どこを通ったかは覚えていない
一緒にいた祖父はいつの間にか行方不明になり、糸満市摩文仁近くの牛舎跡のような建物に祖母と隠れていた。
ある日、3人の日本兵が、その建物に走って入ってきた。
その瞬間、ドカーンと大きな爆発音。米軍の砲弾が建物を直撃したのだ。
気が付くと母をかばうように祖母は死んでいた。母も腰に大けがをしていた。
米軍に助け出されて治療を受けた。今でも、その時の砲弾の細かい破片が体に残っている。
行方不明の祖父の遺骨はいまだに見つからない。それが、わが家の沖縄戦だ。


平和の礎に、祖父母の名が刻まれている。
今年は80人が追加刻銘され、刻銘者総数は24万931人となった。
刻まれた名前の数だけ、苦難に満ちた沖縄戦がある。


                   琉球新報 コラムより抜粋




「平和の礎」




平和の礎には、国籍や軍人、非軍人、男女を問わず、沖縄戦で戦死した全犠牲者と
1931年の満州事変以降の県民戦没者を合わせた24万余(沖縄県民の4人に1人)人の氏名が刻まれている。
米国、14,000人余りの名も。

刻まれている女性の数のほとんどが沖縄県の犠牲者であり、沖縄戦は住民の犠牲者の多さを証明している。









慰霊の日に「負担」説得?


初来県する菅首相は仲井真弘多知事と2度目の会談をする方向で調整しているが、
全戦没者追悼式から場を移して首相と知事が会談するという。 これは異例。

戦後の基地過重負担の原点とも言える慰霊の日に、新たな負担への理解を求めるなんて・・・・
批判が出るだろう。






平和を願って、黙祷。



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by mm_house | 2010-06-23 10:52 | お弁当

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